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最終更新日 2026年8月10日

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令和8年8月の「区長の談話室」(ゲスト:持田信重氏、 芦川和生氏)

令和8年8月の区長の談話室

令和8年8月放送(8月2日・9日) 区長の談話室「平和の尊さについて考える」

※8月9日は、8月2日の再放送です。

今月は、8月15日の終戦の日を前に、改めて平和の尊さについて考えました。幼いころに東京都内で空襲を体験された世田谷区民のお二人をゲストに迎え、当時の記憶や戦争が人生に与えた影響、そして平和への思いについて伺いました。

テーマ・ゲスト紹介

  • パーソナリティ:区長の談話室、今日も保坂展人区長とお送りしていきます。区長、今日もよろしくお願いします。
  • 区長:よろしくお願いします。
  • パーソナリティ:今日は、まもなく8月15日の終戦の日を迎えるにあたり、改めて平和の尊さについて考えていきたいと思います。今回は、幼いころに東京都内で空襲を体験された世田谷区民のお二方をゲストにお迎えしております。まずお一人目は、持田信重さんです。持田さん、よろしくお願いいたします。
  • 持田さん:よろしくお願いいたします。
  • パーソナリティ:そして、もうお一方、芦川和生さんです。芦川さん、よろしくお願いいたします。
  • 芦川さん:よろしくお願いいたします。
  • パーソナリティ:さて区長、今年もまもなく終戦の日を迎えるわけですが、改めて平和について考える機会でもありますよね。
  • 区長:そうですね。昨年はちょうど戦後80年ということで、平和資料館の記念パンフレットを作ったり、保阪正康さんの講演会を開いたりしましたが、だんだんと戦争を体験した方が少なくなってきて、その記憶がちょっと薄れがちな現状があると思うので、ますます力を入れて発信をしていきたいなと。戦争とは何だったのか。そして今、戦争はあちこちで広がって、多くの人が亡くなっている状態、傷ついている状態ですから、なおのこと力を入れてこの平和について考えてみたいと思います。

空襲体験者のお二人を迎えて

  • パーソナリティ:はい。では今日のゲストの持田さん、まずは簡単に自己紹介をお願いいたします。
  • 持田さん:はい。私は、昭和17年5月24日生まれで、今年でちょうど84歳になりました。出身は、正確に申し上げますと群馬県の館林です。と申しますのは、母が私を出産するために実家に帰って出産したということで、一時的に帰ったということですが、生活圏そのものは現在の墨田区石原4丁目でございます。場所的に申し上げますと、ちょうど今のスカイツリーと両国の国技館のちょうど真ん中あたりで、やや錦糸町寄りといったところでございます。
  • パーソナリティ:現在は世田谷区にお住まいということですね。分かりました。では続いて芦川さん、簡単に生まれ年、出身地など教えてください。
  • 芦川さん:はい。私が生まれたところは世田谷区代田4丁目。小田急線の世田谷代田駅、昔は中原と言ってましたけど、そこで生まれました。生まれたのは昭和13年4月2日、歳は88になりました。ずっと、ともかく世田谷で育ちましたので、世田谷のことは特に詳しいです。

東京大空襲の記憶とやけどの後遺症

  • パーソナリティ:はい、ありがとうございます。では早速なんですが、持田さんの方からお話を伺っていきたいのですが、東京大空襲、その時、持田さんは何歳でしたか。
  • 持田さん:正確に申し上げますと、満2歳10か月の頃でありまして、ちょうど大空襲の当日は夜から始まりますが、私の父親が警防団におりまして、そこで情報が入ってきまして、「本日は陸軍記念日か何かなので、アメリカの大編隊の飛行機が来そうだ」という情報が入ったらしくて、夜からみんな避難しろと。その地区全体が避難し始めたと。私は当初、母親の背中に妹と一緒に背負われていたんですが、空襲が始まる直前に父親が戻ってきまして、二人背負ったのでは危ないと。私は父親の背中に代わって、妹は母親、そういう状況で空襲が行われたと。空襲そのものについては、私は小さかったので覚えておりませんが、学校の中へ逃げましたので、そこにもものすごい火が入ってきて、町全体が火に包まれて、印象に残っていますのは、学校の校舎の窓から見えた外に、丸太のような大きな木が燃えていた。真っ赤に燃えていたのを覚えています。後で聞きましたら、それは木ではなくて電柱が燃えていた。まるで炭が真っ赤におこるような形で燃えていました。それはよく覚えています。父親はその途中、煙にまかれて倒れたそうです。意識を失って。そこで私が火に包まれて。
  • 区長:お父さんの背中に背負われたままで。
  • 持田さん:はい。3月10日ですから、まだ寒いころ、ねんねこ半てんを私は着せられて、ちょうどここまで袖があったらしくて。
  • 区長:手首のところまでですね。
  • 持田さん:そうですね。もうちょっとあれば助かったんですが。倒れた父親の背中でもって火が全部来ました。私が「熱いよ、痛いよ」ということで父親が気が付きまして、二人とも死んでしまうと。亡くなった方たちの背中を「ごめん、ごめん」と言って踏みつけて逃げたそうです。途中は省略しますが、朝、空襲が終わりまして明るくなってきたころ、校庭で母親と一緒に見つかって。
  • 区長:お母さんも無事だったんですか。
  • 持田さん:一応無事は無事ですが、もう髪はちりちりに真っ黒に焼けて大変だった。母親はですね、たまたまトイレに逃げていたらしいです。赤ん坊を背負っていたので、ぶつかってはいけない、人込みは大変ですから。それで、赤ん坊はその時、冷たくなり始めていた。ということで、結局は窒息で死亡ということになりました。
  • 区長:それは妹さんだったんですか。
  • 持田さん:はい。私の妹です。それがその時の状況ですね。
  • 区長:その時に手にやけどをされたんですね。
  • 持田さん:朝、二人で両親が会った時に、私の手はどろどろだったと。その後、江戸川区の方の親類に避難しました。お世話になって。その後、昭和20年9月に世田谷の現在の豪徳寺、そこに住んで、それから80何年の現在と。
  • 区長:その当時、お怪我の手当てなんかは。たくさん怪我された人がいましたよね。
  • 持田さん:そうですね。むしろ死んだ人の方がたくさんいたと。
  • 区長:病院とかも焼けたんですよね。
  • 持田さん:お医者さんも何もおりませんでしたので、私の治療ができなかった。この治療はですね、世田谷に来まして、5歳の直前くらいに東京大学の本郷ですね、あそこに約40日入院して、3回、4回手術しました。けど最後に父親が呼ばれて、「現在の医学ではこれ以上の治療はできない。大変申し訳ないけど、将来、治療の良い方法ができたら、ぜひまた来てください」ということで、むなしいけれど引き下がった。そういうふうに聞いております。
  • パーソナリティ:壮絶な体験だったと思うのですが、怪我の方もそこからそのままの状態で生きていらっしゃるということなんですけれども、そのことで人生に与えた影響みたいなものは、どのようなことがありましたか。
  • 持田さん:たくさんありますね。今でこそ笑って話しますけど、私も小学校、中学校、高校となるにしたがって、やはり悩みがありました。極端な話、人の視線ですよね。それも気になります。むしろ私よりも両親がとっても心配し悩んで。両親がいるうちはいいけど、私ひとりになりました。弟はいますけどね。将来どういうふうにしていかなきゃいけないかということで悩んでいたと思います。高校に入学する時に私もずいぶん言われました。これからどういう進路を進むのかということで。父親は私の手を見て、これではどうしてもメーカーとか人の前に出る仕事はできないだろうということを考えて、私に資格を取って、例えば弁護士とか経理士とか、そういう資格を取って、それを生計にしたらどうかと思ったらしいです。ですから具体的に申し上げますと、高校は商業高校で、学校は都立第一商業高校に入りました。その延長で会計士を狙おうかということもありましたので、中央大学の商学部に会計経営コース、資格を取る方に行ったのですが、最終的には私が一般会社、損害保険会社に入社して、そこでずっと終わっております。
  • 区長:手にやけどをされて、その障害がその当時から今に至るまで残ってらっしゃる。
  • 持田さん:はい。4歳、5歳の時に手術が終わった段階でこの手です。

世田谷での空襲体験と失明の危機

  • パーソナリティ:分かりました。ありがとうございます。では続いて芦川さんにお伺いしたいと思います。芦川さんが東京都内で空襲を経験された時は何歳だったんでしょうか。
  • 芦川さん:7歳です。
  • パーソナリティ:その時のことで覚えていることはどんなことがありますか。
  • 芦川さん:覚えているのは、私と母親は、防空壕は皆さんご存じだと思うんですけれども、防空壕というのが世田谷の代田のすぐそばにありまして、あちらこちらにあったんですが、その一つのところへ母親と、サイレンが鳴ると必ず二人で、また近所の方と防空壕へ逃げ込みましたね。その時にですね、運悪く、私は真っ赤な夜空を東の空に見て「すごいなあ」なんて思っていたところへ、焼夷弾がですね、焼夷弾ってご存じでしょうか。筒から火を噴いて空から落ちてくる。ですから、それでこういうふうに燃えたわけです。その焼夷弾が、私と10人くらいが防空壕に逃げ込んだところに、中に落っこちたんですね。落ちたために全員が火だるまになるくらい火がついちゃって、それで慌ててみんなで表に出て、消さなくちゃならないんですけど、消すのも泥で消したと。畑ですから、泥で。母親も一生懸命私を抱いて表へ出て、消し止めたんでしょう。一応そこで消し止めて、そのあとはすぐそばに円乗院というお寺があるんですが、そこへ何人か退避したというか、そこへ逃げ込んだということです。今も円乗院にはですね、でかい大木があったんですが、その大木が焼けちゃって、葉っぱ一つもないまま、今も残っています。年に二回は必ずお墓参りに行きますけれども、それがいつも目に入って、そのあと拝んで帰ってくるんですけれども。そういう母との戦争体験はすごくきついものがありまして。その後、私は火だるまになった私を消し止めたのはいいけど、目が見えなくなってしまった。母親が抱っこしたりおんぶしたりして、円乗院のところで何か月か頑張って私を介抱しながら月日が経ちました。月日が経って、母親の実家は茨城なんですけれども、茨城の方へ私を預けるために行きまして、「早くお母さんが迎えに来ればいいな」と言っている時に、やっと2年くらい経ってから迎えに来て、私は4年生から東京へ戻って、代沢小学校、世田谷でもあちこち燃えちゃって小学校にも行けなかったんですけれども、代沢小学校は焼けずに残っていたので、そこから通って、それで普通の生活に戻ったというか、はい。
  • 区長:芦川さん、お寺に逃げ込まれた時には、もう目が見えないような状態で。
  • 芦川さん:そうです。防空壕から出て、防空頭巾は燃えちゃってるし、今も腕はこれは残ってますけれども。これはやけどです。これが焼夷弾がかすって怪我したのが残っているんですけれども。こんな話をしたのはないですね、今までに。
  • 区長:そうですか。目が見えなくなって、お寺の方に避難されたんですよね。
  • 芦川さん:そうです。
  • 区長:それから例えば、手当とか、お医者さんが来たりとかいうことはあったんですか。
  • 芦川さん:ない。お医者は、全部焼け野原になっちゃって燃えて無理なんで、お寺の方にある応急処置での手当だけやって、それでどうにか治ったというか。
  • 区長:だんだん見えるようになってきた。
  • 芦川さん:そうなんです。だんだん見えるようにはなったんですけど。
  • 区長:良かったですね、それは。そうやってお怪我をされた、あるいは難を逃れた方は、お寺にもほかにいらっしゃった。
  • 芦川さん:それはもう大変な数でした。お寺だけじゃなしに、そのお寺のそばを流れている川に逃げ込んで、それで川の水を飲んで助かったとか、川へ飛び込んで溺れて死んだとか。その川の中に死体があったそうです。私は目が見えないんでね、見えないですけど。母親の話では相当川の色が変わっていたくらいに、周りが全部燃えちゃったと。

語り継ぐことの意味

  • 区長:今、お話を初めてしていただいたということなんですけれど、あまり思い出したくないことだったり、あるいは人になかなか言いにくいことだったりしたっていうこともありましたか。
  • 芦川さん:そうですね。こんな話、本当に初めてですからね。こういう話をしたからって、それが何なの、っていうようなことだと、私は思っていたんでね。
  • 区長:そんなことはない。
  • 芦川さん:決して人には言わない、見せない。だから仕事でも弱音を吐いたことはありません。
  • 区長:これは世田谷で起きたこと。
  • 芦川さん:世田谷で起きたことです。全部世田谷です。
  • 区長:ですよね。一般的には、世田谷区はあんまり空襲が少なくて、怪我をしたりした方も亡くなった方も少ないと言われてきたのですけど、でもやはりその中で大変な被害があったということですね。私も昭和30年生まれで、戦争は親たちからしか聞いてないんですよね。世田谷区民でもほとんどの方が80歳以下ですよね。だから「世田谷区で戦争があったの?」っていうのは、今初めてお話で知ったという方、この番組を聞いて多いんじゃないかと思うんですね。ですからやはり、伝えていただくことはすごく大事なことだなと思いました。
  • パーソナリティ:その「伝える」ということに関してなんですが、持田さんは世田谷区内の小学校、中学校などで、戦争体験の語り部として活動してくださっているのですが、そのお話をされるたびに、子どもたちの反応はいかがですか。
  • 持田さん:はい。語り部としては新米で、昨年から初めて携わりまして、現在2回だけ実施させていただきました。感想を申し上げますと、私として新しい発見といいますか、そういう気持ちでおります。実際に生徒さん、ある小学校で120~130人の方が体育館の床の上にみんな座りまして、私どもが話をするわけですが、私の番になりましてお話をしますと、初めはちょっとみんな隣同士で話をされて、がやがやしていたんですが、私が最初にプロフィールを話した後ですね、皆さんの前に行きまして、「私の手がこれなんだよ」というふうに見せたら、みんなびっくりして、一瞬にして静まり返って、それから話を真剣に聞くようになりました。途中休憩だのあったりしましたけれども、そのあたりから今度は小学校、中学校の子どものころの話になりましたら、今度は生徒さんたちが私の話に大変興味をもちまして、そのころのご飯はどんなご飯とか、あるいはおやつはどんなの、遊びはどんなのとか。ですからそこで私は、ご飯は麦ごはんが当たり前だったと。食糧難でしたから。おやつはおいもとかですね、そういう話をしまして、みんなびっくりしたような感じがしました。やっぱり戦争は大変で、いけないなというふうなことを。これは小学生の皆さんですが、後日感想文を全員の方からいただきました。そういうようなことで、これからも語り部としてできる範囲で続けていきたいと思っています。

今の世界情勢と平和への願い

  • パーソナリティ:よろしくお願いします。芦川さん、世界では先ほど区長もお話ありましたが、まだ戦争や紛争が起こっていますけれども、今この状況に関してはどのように感じていらっしゃいますか。
  • 芦川さん:そうですね。昭和20年、日本に初めて原子爆弾というのがありましたよね。今後そういう戦争がなくなればいいなと思って。いい方向に、なんでも今ね、地球の皆さんが安心して平等に生きられる、そういうような世界の暮らし方になったらいいなと思いますね。

平和資料館と見舞金制度について

  • パーソナリティ:分かりました。ありがとうございます。区長、世田谷区には「せたがや未来の平和館」がありますが、こちらで戦争に関する資料の展示とか、お話会、ワークショップなどが行われているということなんですよね。
  • 区長:そうですね。7月25日から9月30日までですので、今お聴きになっている皆さんは、もし世田谷公園の中にある「せたがや未来の平和館」、平和資料館がありますので、コンパクトな展示ですけど、ぜひじっくりご覧になったり、あるいはこの展示を見ていただきたいと思います。また世田谷区ではですね、今お二人のお話をいただきました、空襲でお怪我をされたり、大変不自由な思いと傷を受けてこられた皆さんに対して、「世田谷区民間空襲等被害者見舞金」という制度を作りました。軍隊であれば、軍事恩給というものが出ております。しかし民間人には今まで、大変多くの方が亡くなったり、大けがをしたりしているんですが、補償がなかった。本来この補償は国がやるべきことで、区がやるべきことではないんですけれども、区としては皆さんのご苦労に対して、わずか3万円という金額ですけれども、いたわりの気持ちとお見舞いということで気持ちを表して。全体としては、国全体でももう80年たって、時間はこんなに経過しているけれども、ちゃんとけじめをつけてほしいというような思いも込めてスタートして。現在もお二人のように体験をされた方、そして戦争によってお怪我や障害を負っている方を対象に、一定の審査をしますけれども、もしかしたら該当するんじゃないかなと思えるリスナーの皆さんのお近くにもいらっしゃったら、そういう制度があるよと、ぜひご紹介いただきたいと思います。
  • パーソナリティ:この制度なんですが、持田さん、この制度についてどんなふうにお考えですか。
  • 持田さん:私は大賛成という気持ちを持っています。いただいております。申請しまして。私が思うのは金額の大小ではなくて、私としては、こうした取り組みを具体的に、国がやらないことをやり始めた、それにですね、大変感激しまして、何とかこれを広めていきたいという気持ちでいます。
  • パーソナリティ:ありがとうございます。その「世田谷区民間空襲等被害者見舞金」は、申請を現在も随時受け付けております。詳しくは、世田谷区のホームページでご確認いただくか、所管課にご連絡いただければ、申請書類を郵送するなど、お困りごとをお聞きし、丁寧に対応させていただきますので、ぜひお気軽にご連絡をよろしくお願いいたします。ご自身でも、それからご家族、周りの方などでも、もしかしたらという方がいらっしゃいましたら、ぜひご連絡ください。また、「区のおしらせ」にもこちらのことについて詳しく載っていますので、ぜひご覧いただければと思います。

リスナーへのメッセージ

  • パーソナリティ:では最後に、リスナーの皆さんに一言ずつメッセージをお願いしたいと思います。持田さん、お願いいたします。
  • 持田さん:はい。東京大空襲で怪我が残っていますので、戦争が起きない社会、それを目指してこれからも私自身が活動しますし、戦争を知らない年代の方も、今世界で起こっている戦争、紛争、これらについて知恵と努力で回避できるような、そういう意味合いの社会を目指していただければ、語り継いでいただきたい、これが私の気持ちです。
  • パーソナリティ:はい。芦川さん、一言お願いします。
  • 芦川さん:ともかくありがたいお話をね、いただいて。3万円というお金をいただきました。歳を取った方がいっぱいいますから、またそういう経験をしたこともあるだろうから、これからもよろしくお願いします。
  • パーソナリティ:では区長、最後にまとめをお願いいたします。
  • 区長:はい。持田さん、芦川さん、本当に思い出したくない記憶も含めてお話しいただいてありがとうございます。こういう機会を通してですね、お二人とも80代で、はるか81年前の幼少のころの、しかし重い怪我や傷と共に人生を歩んで来られた。本当に金額は少ないですけれども、お気持ちを示させていただき、同時に今日のようなお話を区民の方が耳を傾ける。ですから、空襲見舞金等の制度を通してですね、こういった番組ができたり、語り部に加わる方が増えてきたりすることがまずは大事かなと。体験をされた方のお話を聞くということは、大変貴重なことで。この貴重な機会をいただいたということを、今日お二人に感謝したいと思います。ありがとうございます。
  • 持田さん・芦川さん:ありがとうございました。
  • パーソナリティ:今日の区長の談話室、お送りしてきました。保坂区長、そして持田さん、芦川さん、ありがとうございました。
  • 区長・持田さん・芦川さん:ありがとうございました。
  • 談話室R8年8月放送

写真:後列左より保坂区長、パーソナリティ

前列左より芦川和生氏、持田信重氏

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政策経営部 広報広聴課  

ファクシミリ:03-5432-3001